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長浜様より”嬉しいコメント”をいただきました!

坂井様、ありがとうございました!(管理人)


原点 

長浜ギター教室 長浜すみお


2020年2月で70歳になりました。 ギターに恋して54年、そして仕事にして46年が経ち、アッという間の夢の中の出来事の様です。いい歳をして世の中の事は何も分かりませんが人の優しさは分かります。 ギターを仕事にして行けるような恵まれた環境では無かったのですが、ギターが好きな気持ちとギターによって出会えた素晴らしい人びとの協力のお陰で続けて来られました。 

■恩人、渡辺範彦さんとの出会いと想い出 

18歳だった僕はギターを練習しながらアルバイトと定時制高校に通う日々を過ごしていた約52年前の事。場所は東京文化会館小ホール、デビューされて評判だった渡辺範彦さんのリサイタルを聴こうとする満員の聴衆の中のひとりだった僕はどんな演奏をするのだろうと開演のブザーを待ちわびていた。 予鈴が鳴るとギターの小さな音が控えから聴こえ、いよいよ渡辺さんがステージに。 

弱冠20歳の渡辺さん、堂々としたステージマナーと親指だけで調弦する格好いい姿。 そしてポンセの前奏曲を弾き出された。オーソドックスな演奏、ノーミスで弾き進められ る素晴らしいテクニック、そして迫力ある表現の中に美しさと優しさが・・・・・お前が 望んでいるのはこれだろうと目の前に宝物を差し出された様だった。 

あっという間にアンコールも終わり嵐のような拍手の中、僕は夢中で渡辺さんの控え室に向かっていた。 

内気な自分がどうした事か・・・ 控え室のドアの横に立っている僕の前を写真で見た事があるギターや音楽関係の有名な人 が次々とお祝いに出入りしていた、でも場違いな所にいる自分に気が付かなかった。 渡辺さんが出てくるのを待っていた僕の目の前を・・・でも声をかけられない。 ただ渡辺さんが持っていた珍しい青灰色のギターケースが強く印象に・・・ アアア・・・ぼくは走って文化会館の玄関口に、丁度ギター製作家の河野賢さんがいたので(河野さんは渡辺さんの後援者)「渡辺さんにサインを貰いたいのですけど」と声をかけた、河野さんが「渡辺くーん」と呼んでくれた。 そして目の前に・・・「サインをお願いします」・・・「ペンを持っていません」とハッキリした返事、そばにいた河野さんがペンを渡辺さんに。快くサインをしてくれ、そして堅く長い握手・・・僕を見る真っ直ぐな眼差し、力強い右手の感触、・・・何て素敵な人なんだろう・・・胸一杯で家路に・・・ 

暫くして渡辺さんに手紙を書いた、ギターを練習している事やリサイタルが素晴らしかった事、握手をして貰えた事等のお礼を。 数ヶ月後、突然外国から絵葉書が(今、フランスのニースにいます、と近況やギター頑張 って下さい等・・・)差出人を見て驚いた、渡辺範彦さんからだった。嬉しさがこみ上げ た・・・!渡辺さんがヨーロッパに留学中の時だった。 

その年の暮 (帰って参りました、どうぞ遊びにいらしてください)の嬉しい便りが届いた、 渡辺さんは池袋の河野さん所有のアパートに寄宿していた。河野さんの家を探しながら約 束の時間、渡辺さんが外で待っていてくれた・・・そして夢の日々が始まった・・・ 

二階の四畳半が渡辺さんの部屋、楽しい話の後「長浜さんギター弾いてみて」と、僕は練習していた曲を弾いた・・・・ 

「長浜さん、僕が教えてあげる、そしてお金のことは心配しないで下さい・・・」 憧れの人の言葉に天にも昇る気持ちだった。そして「飯、食べに行きましょう」と、誘ってくれてラーメン屋さんに、渡辺さんは焼きそばと玉子スープ、自分も同じ物を、ギターが上手になるような気がして・・・夢心地だった。 

渡辺さんは「池袋の渡辺です」とよく電話を下さり、レッスン日以外にも遊びにこないかと誘ってくれて、色々なところに遊びに連れて行ってくれ、その想い出は書ききれない。 ギターを持たない渡辺さんはとても面白い人でよく突飛な事を言って笑わせてくれた、渡 辺さんには沢山の友人と後援者がいて一緒に楽しい時間を共有させてくれ、そしていつも隣にいてくれた。 レッスンは、音は綺麗だと誉めて貰えたけど自分の貧弱な音や次元が違う演奏に戸惑うば かりだった。 右指のタッチに付いて色々教えてくれて知らなかった事が多く、聴いててごらんとギターを目の前で弾いてくれる幸せな時間を毎回過ごした、間近で聴く渡辺さんの演奏は迫力が 有り、太くて美しい独特な音色で、指が柔軟に動く様は見ているだけでも素晴らしかった。 

ある日渡辺さんが家に遊びに来てくれ、当時板橋の都営住宅に僕は母と二人で住んで居た、 姉や兄は独立していて父は病気で入院していた。 渡辺さんと家にいたら外出中の母が帰ってきて渡辺さんがいたのでびっくり・・・ いつも渡辺さんの話をしていたので母は喜んで食事を用意し渡辺さんに、「僕はこういうのが好きなんだ」と喜んでくれて、そして母の目の前でギターを弾いてくれた。 帰りの道すがらお母さんにお礼だとお金を渡された。 渡辺さんがお礼をくれたよと、母はべっ甲の髪飾りを買い大切に・・・ 

そして渡辺さんは世界一権威のあるパリ国際ギターコンクールに挑戦するためにフランス に、数日後、久坂晴夫先生(若手ギタリストを沢山指導していた)から電話を頂いた、 「渡辺君が一位になったよ、パリから連絡があった」と朗報が・・・ 日本人初めての一位!!!それも審査員全員が一位の快挙!!! 天才と呼ばれている渡辺範彦さんにギターを教えて貰っている自分、感謝と誇りに思う日々だったし、周りの人達から不思議がられた。 

僕は中学を卒業して就職の道を選んだ、殆どの人が高校に行くのが当たり前なのに周りの反対を押し切って社会人になった。 家の事情もあったが、考えが方が普通では無かった、世の中の事は何も分からないのに理不尽さは感じていて学校へ行くより早く独立したかった、でも現実は甘くなく、その結果 挫折しまくった。そして苦しい毎日になった。 色々な職を転々とし中学で仲の良かった友達とも話が合わなくなり疎遠になった。 小さな町工場で誰でも出来る仕事の繰り返し、自分は一生こんな事で終わるのか?と思う といたたまれない気持ちで過ごしていた夢の無い日々。道を外れるとあんな風になっちゃうよ、の声がどこからともなく聞こえてくる中、ギターと出会った、子供の時から歌や音楽は好きだったのですぐ夢中になった。 親が口ずさんでいた古賀メロディを適当に弾いていたけど様はデタラメ。でもギターの音は心を癒やしてくれ、上手になりたかったし初めて夢が持てた。でもちゃんとした弾き方 が分からない、人に物を習うことが嫌いだった自分が家の近くに有ったギター教室に行く 事にした、最初の先生は島山智正さんと言う中年の人だった。 

初歩から弾き方を教えて貰い「君は器用だね」と誉められたけど3ヶ月で辞めてしまった。 暫く夢中で独学をしていた・・・次の先生は一流所の大沢絆先生に習う事に、大沢先生は マドリード国立音楽院のギター教授資格を持っている人で大きく教室をやられていた。 代教の北島偉三夫先生と大沢先生が教えてくれる事に、北島先生は若くハンサムな人でギター界の事を教えてくれたり、一緒に食事に行ったり家にも遊びに来てくれたりと、とても良くしてくれた先生だった。 

大沢先生からは「君の音は綺麗だね」と誉められ、良く練習したので優秀の免状を貰ったり進級するのが早かった、たけど進級すると月謝がどんどん高くなりアルバイトのお金 ではきつくなり辞めざるを得なかった。 そのころ社会は高校程度の学力と資格は必要だの気持ちから定時制に通っていた。 

そんな時に渡辺範彦さんと出会った!! 渡辺さんはよく練習されていた、夏などは裸に近い格好で頭に鉢巻きをしてギターを弾いていた。凄まじい勢いでスケールや曲を弾いていて演奏家の厳しさや凄さを感じた。 部屋の中にはファンから贈られた沢山の手紙、綺麗な花の写真が壁中に貼ってあり、それを励みにされているようだった。 それから部屋に(整理整頓)(経済観念を忘れるな)など直筆の張り紙が沢山ありギターを持たなければ一人の普通の青年なんだと思った。 

そして食事に誘ってくれる時いつも奢ってくれて絶対僕に払わせない、ある日食事に行くと「長浜さんお金持ってる?悪いけど出しといてくれる、数日するとお金が入るから」僕の方がたまには払いたいのに・・・ 「長浜さん、先立つものがなければ何にも出来ないよ」の言葉に自分は子供だなあと思った し、歳が余り離れていないのにギター以外でも色々学ぶ事が多かった。 

 

ある日、あまりに良くしてくれるので不思議に思って聞いてみた「何故こんなに親切に?」 「僕は小さいときから沢山の人と会ってきたけど貴方のような人に初めて会った、変わっていて可愛いんだ、僕の出来る事は何でもしてあげる、だからギター練習してコンクール を受けて下さい、約束ですよ」 その日の帰りは夜中の12時を過ぎていた、別れの堅い握手の後に「タクシーで帰る?」「いえ歩いて帰ります」じゃあこれと3本のたばこを「吸いながら帰りなよ」と渡された。 1時間以上はかかる道のりを渡辺さんの優しさに、滲んだ夜空を見ながら家路に、そして たばこが好きになった。 

バッハやバイス等の曲を練習していた矢先、自分の不注意から学校のサッカー授業中転倒して左小指を骨折してしまった。 渡辺さんは励ましてくれたけど、期待に添えないじぶんが情けなかった。 ギターが練習出来ず気の抜けた生活をしていた時学校を卒業し21歳になっていた。そして色々な事情から兄夫婦と両親が住む太田市に・・・、東京を離れることに。 渡辺さんに申し訳ない・・・あんなに良くしてくれてギターで食べていける様応援してくれたのに心ならずも結果として裏切ってしまった。 

太田市に来てからも渡辺さんは電話等で心配してくれた。 指は治ったけど、右も左も分からない所に来てなにも先の事が見通せない。 「長浜さん、ギターを教えるといいよ」と渡辺さんから言われていた。色々問題もあったが教室を開くことにした、ギターひとつで生活が出来るのか? あまり深く考えないで始めた、容易ではなかったが当時太田市ではギターを弾く人は何人 かいてもまともな演奏する人がいなかったので僕がギターを弾くと驚かれた。 生徒さんも最低限の生活が出来る程度は集まり発表会や小さな演奏会等が出来るようになり、楽ではなかったがどうにかギター教室をやっていたが、渡辺さんとの約束が心に引っかかっていた。そして十数年があっという間に過ぎた。 

そのころ前橋のギタリスト伊藤博志さんがスペイン留学から帰国され演奏会で共演する機会があった。 本番前「この曲知ってますか?」とギターを弾き出された、伊藤さんは国内のコンクールで一位、スペインのコンクールでも三位を取られたりと実力者だったがそれ以上にギター を真剣に勉強されて来た情熱溢れる演奏に、のんびりやってきた自分が恥ずかしかった。 

「伊藤さん、ギターを教えてくれますか?」が僕の第一声だった。 伊藤さんに渡辺さんとの約束でコンクールを受けたい事等を話し、了解を得、もう遅い事は分かっていたが伊藤さんに曲を見て貰いコンクールを受ける事にした。 

「飯代を出してくれれば良いよ」と言われて伊藤さんにもまともなレッスン料は払ってい ない。伊藤さんは話が面白い人で、スペインの事やギター界の事など毎回時間を忘れて話し込む事が多く夜明けまでレストランで過ごした事もあった。 

予選は受かりコンクールの会場で渡辺さんと再会・・・渡辺さんは自身の教室を開き優秀な生徒さんを多く育てられていたので、生徒さんがコンクールを受けに来ていたようだった。 ステージで課題曲を弾き終わりお辞儀をする際、審査員の方では無く会場左奥にいた渡辺さんに向かって自然と頭が下がった。 結果は本選に残れなかったが、生徒さん達の前で僕の肩を抱きながら「長浜さんは僕の生徒さんなんだ」と紹介してくれた「是非遊びに来て」の言葉が嬉しかった。 やっと約束が果たせた。 暫くして渡辺さんに会いに行った、西国分寺の駅から電話すると迎えに来てくれ、黙って 堅い握手・・・肩を抱かれ「まず飯を食べに行きましょう」とレストランへ。 僕は今までの事や、伊藤さんに見て貰ってコンクールを受けた事などを話した、渡辺さんは黙って聞いていてくれた。 そして自宅へ、積もる話に時間が過ぎ「長浜さんギター弾いてみて」僕はソル、トローバの曲を弾いた、色々アドバイスをして下さり又堅い握手をしてくれた・・・ 

「ギター続けていたんだね、長浜さんいくつになった」「38になりました」「僕は40 になったよ」と言われた時渡辺さんは目頭をぬぐわれた、僕も胸が一杯になった。 僕とは次元が違うギター界の第一人者としての重責・・・そして真面目な渡辺さんは事ギターに関しては心が休まる時が無かったのではと。 そしてあっという間に帰る時間が、駅まで送ってくれ途中なにか食べて行こうとラーメン 屋さんに「長浜さん何にする」「焼きそばと玉子スープがいいです」でも涙で味が分から なかった。 その後も別れがたく喫茶店に、「長浜さん、以前にコンクールと言ったけどこれが全てじ ゃないよ」と慰めてくれた。時間は意地悪で幸せの時間はすぐ過ぎる、電車の時間が来た。 堅い握手「又遊びに来て・・・」「ハイ」帰りの電車の車窓から見える夜景がばかに美しく見えた。でもこれが渡辺さんに会った最後になってしまった・・・ 

渡辺さんに会えた嬉しい気持ちを持ちながら太田市で教室活動を続けた。 その後渡辺さんは体調を崩されたと聞き、演奏活動はやられなくなっていた。 2004年奥様の悦子さんから「範彦が2月29日に亡くなりました」の電話が・・・ ええー、頭が真っ白に、僅か56歳で天国へ・・・・・ こんな事になるならもっと会いに行けば良かったと後悔した、そして走馬燈の様に渡辺さ んとの思い出が・・・・・・ 沢山の人に感動を与えてギターの一時代を築いた渡辺範彦さんがこの世を去ってしまっ た。 僕には本当に優しく大きな愛で包んでくれた範彦さん、僕は正式な生徒では無いので渡辺 さんを先生と呼んだことは無かったけど僕にとって大きな大きな先生だった。そして叶うなら言ってみたい、楽しい事も苦しい事も色々な事が有ると話を聞いて欲しくて「先生・ ・・あのね」と・・・ 

悦子さんに案内されて範彦さんのお墓に行った、墓石の範彦さんの名前を手で撫でて心の中で、本当にありがとうございました、と感謝した。 悲しくなるかなと思っていたが、泣き虫の僕が涙がでず、何故か体がぼーっと温かくなる 不思議な感覚になった。 範彦さんが「長浜さん、一生懸命頑張って下さい」と言っている気がした。 悦子さんから「これ範彦がしていたマフラーですけど」とまだ新しいマフラーを形見に頂いた。 

ギターひとつで生活していくのは容易ではない、まともな親孝行は何も出来なかったけど今は亡き母の目の前で渡辺さんがギターを弾いてくれた事は唯一親孝行だ、いつも渡辺さんの話が出ると「渡辺さんは世界一になったんだよね」と嬉しそうに話す母に、僕の心も和んでいた。 

16歳でギターと出会い夢を追って気が付いたら古希となり、僕もいい歳になった。 今までギターを通じて出会えた人は僕には無い能力を持った素晴らしい人達だった、そし て力を貸してくれた。 小さな自分がここまで好きなギターを続けて来られたのは周りの人達の協力のお陰で感謝しているし、今までの人生、ギターに関してはつくづく幸せ者だと思っている。 

そして渡辺範彦さんの素晴らしい演奏と人柄に出会えた喜びが、僕にギターを続けさせた原点だ。 確実に言えるのは苦しく悲しかった少年を範彦さんは救った、その証拠はここに居る。 

もしも僕が天国に行けるのなら又渡辺範彦さんにサインを貰いに行くだろう・・・ 

《渡辺範彦さんとの想い出》 

2020年、古希を迎えて 

長浜すみお 


※文中に登場している「青灰色のギターケース」がつい最近見つかりました。1970年代はじめの頃、人気があった「ウエノギターケース製作所」製のようです。この出来事については楽器の修理が終わりましたら、改めて紹介させていただきたいと思っております(悦子)